最初

こんにちは、最近いつも触れない分野の本をよく読みます。
なんかこう、雑に感性を広げる的な。そんな中、詩・短歌に触れて日本語の自由さに驚愕したので綴っていきます。

思った


突然なんですけど、僕は気づいたんですよ。

僕が普段使う日本語って不自由だったんだなって。
みなさんの使う日本語ってどうなってます?

「説明用の日本語」で、5W1Hのルールを守っているんじゃないですか?今日誰がどこで何をした。その時こう思った。みたいなのばかりしていませんか?

いつの間にか日常の中もそんな「説明用の日本語」に乗っ取られてませんか?小さい頃は概念だけで喋っていたのに、今は整合性と意味だけを求められた会話をしていませんか?


「悲しみ」のイメージは「青色」で、「口」に結びつく動詞は「開く」で、S+V+Oの関係性が決まりきったパズルを組み立てているような日本語の使い方をしている人は多いと思います。
というか、 僕は完璧にそれで。
仕事や社会人としての振る舞いをしているなかで、徐々に日本語の用途の幅が狭くなっていったように感じます。

演劇をやっていながら、ニュアンスとか雰囲気を軽視して、意味が伝わるか否かをずっと気にしていました。日本語って言葉は元々持っている意味を超えて伝えることはできないんだと、ある種諦めのような気持ちで日本語を使っていました。

そんな中、知り合いから勧められた本

「えーえんとくちから」笹井宏之
「死んでしまう系のぼくらに」最果タヒ
「天国と、とてつもない暇」最果タヒ
「空が分裂する」最果タヒ


を読んで、その価値観はだいぶ壊されました。

「えぇ、こんな日本語って自由に使っていいの?」
もうこれです。まじで。感想はこれだけ。

例とか

バスのなか、長方形の光につつまれて
わたし、冷蔵庫にねむる氷みたいだった。
どうして、うつくしいものは、いつも近づきすぎると生々しく、
わたしを呪うようにうごめくのか。
この季節の空気は、
透明のエイやイルカがすぐそばを泳いでいるような、
そんななまぬるさ、やわらかさ。
生き物なのかわからないのに、
それ以外に、どう呼べばいいのかもわからない。
みんな、かわいそうで、みんな、残酷。ですね。
あなたを溶かすことなどできないのに、
あなたは私に近づいて、
けずれて、痛みに泣いている。

「16度の詩」天国と、とてつもない暇

感性をそのまま言葉に乗っけてるような感覚を印象として受けました。
普段使う日本語とは違う「自己表現的な日本語」。言葉だけで日本語は、こんなに表現の幅があったんだって驚きます。作者の生の感性をぶつけてくるような出し方で、人間性がそこにあるような肉感。

読んでいると、
自分の感性や価値観で捉えた世界も、価値があるような気がしてきます。
夕方歩いていてふと思い出す、部活の頃の記憶や、近所の人に回覧板を回しに行った記憶とか、あぁいうのも全部まとめて肯定できる気がしました。

だって経験して言葉にする前は同じくらい尊いものを見てるんだもの。

誰かに伝達するための言葉にする前の、音や質感をそのまま味わうような、

何気ない風景や、別段特別でもない日常も見方次第で味もつけられるんだなってこと

終わり

なかなか自分を肯定するのって難しいです。どこまで行っても自分を好きになれないし、言葉や行動一つ一つ取っても、自分自身を嫌いになれます。

ただ、自分を好きになることが大事ってのも知ってます。

この本たちを読んでいると、そんな自分の見てる世界を、ひいては自分をほんの少しだけ好きになれるような気がしました。

面白かったので、たまにこういう知らない分野も手を出していこうかしら。
ではでは、さいなら。



投稿者 @rongai